50年前には総延長が4000kmもあったという北海道の鉄道路線。
その後沿線の過疎化や道路網の発達により赤字路線が増え、次々と廃線になっていきました。
日高地方にもそういう路線がありました。
かつて鉱山や森林の資源開発の為に敷設された路線を国鉄が買い取り、鵡川から沙流郡日高町までを結んでいたのが富内線です。
全面開通したのが1964年。
しかし20年後に全線廃止となっています。
その富内線跡を訪ねてみました。
写真↑は現存する日高本線の鵡川駅の裏手。
豊城方面に向かう路盤の跡がわかります。
豊城駅の跡地は、路盤は道路に転用され、駅跡は更地になっていました。
なんとなく寂しいですね。
次の春日駅は、草むしたホームに駅名標が立っていました。
駅舎はバスの待合所として利用されており、この日は中学生が二人、バスを待っていましたよ。
バス停とホームの間は小さな畑になっていました(^^
旭岡の駅跡です。
この後、右側の路盤跡の道路から路線バスがやって来ました。
なんと、現存する駅舎が!!
この路線の名前にもなっている富内の駅舎です。
しっかりと保存されていました。
中にも入れそうなので…
おーーーーっ、きれいに掃除されています。
今も使われているかのような駅の内部。
地元の人達が綺麗に管理してるのでしょうね。
時刻表や料金表も現役時代のまま壁に貼り付けられていました。
さて、線路も残っているようなので、ホームに出てみましょう。
おっ、少年が汽車を待っていますね。
って、そんな気分になるくらい在りし日のままの姿で保存されていますよ。
写真にはありませんが、列車を改造したライダーハウスも置かれていました。
残るもの、消えゆくもの
幌毛志(ほろけし)駅跡の近くにはポツンと橋台が残されていました。
※アイヌ語地名ですが、「ポロサルケシ:poro-sar-kesh=大きい-葦原-の末端」の、
sarが省略された形で残ったのではないかと言われています。
振内駅跡には鉄道記念館が建っていました。
この日は予約していなかったので開いていませんでしたが、ホームには出る事が出来ましたよ~♪
※振内はアイヌ語の「フレナイ:hure-nay=赤い-川」に漢字を充てた地名です。
付近に鉱脈があったので、その影響で川の水が赤かったのでしょう。
ここにもライダーハウスとして利用されている客車がありました。
各駅の駅名標も並んでいます。さすが鉄道記念館!!
サハリン帰りのD-51も静態保存されていました。
仁世宇(にせう)駅跡近くにはコンクリート橋が残されていました。
※ニセウもアイヌ語地名ですが、正確な意味は分からなくなってしまったようです。
日高三岡駅前跡地から路盤跡を撮影。ホームも簡易駅舎も無くなっていました。
そして終点の日高町駅跡です。
廃線後しばらくの間は地元農協に再利用されていたそうですが、今はすっかり更地になり、記念の石碑だけが置かれていました。
ところで、ここまで読まれて「はて、今ではもう何もない所がどうして駅跡だとか分かるのか?」
と、疑問を持たれた方もいらっしゃると思います。
実はですねぇ、出かける前に廃線マニアの息子がネットや書籍などで駅跡や遺物の位置を調べ、私は国土地理院の古い航空写真と現代のグーグルマップを並べてみて、遺構の位置を比定してから出かけてるんです。
それでほとんど間違いなく現場を見つける事が出来るんですよ(^^
道内各地でかつて沢山の人や物を運んだであろう鉄道が消え、駅舎など鉄道にまつわるものも無くなり、沿線から集落が消えもしました。
そんな北海道の昔を想像しながら、廃線の跡を歩く旅というのも、また趣のあるものだなぁと感じました。
【廃線富内線跡地】
北海道沙流郡日高町字日高~鵡川町穂別富内~鵡川駅
この記事を書いた人:hoshiboo